ガーナトップ>ガーナの歴史

目次

その1 ヨーロッパ人ガーナに来る

ガーナの歴史の始まり。ヨーロッパが来てから記録が残っています。

その2 アサンティ王国

ガーナの古き王国アサンティ王国の話です。

その3 イギリスとの戦い

イギリスと戦いを始めます。それまでは独立した国同士だったんですよ。

その4 植民地下のガーナ

イギリスによって植民地になったガーナの歴史です。

その5 ガーナ独立からその後・前半

ガーナがイギリスから独立します。ただ国の安定はまだまだです。

その6 ガーナ独立からその後・後半

現在に至るガーナの歴史です。


「ガーナの歴史を知ろう その1 ヨーロッパ人ガーナに来る」

ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。というわけで今回はガーナの歴史。

ガーナという国名は新しいもので1957年に採用されました。その前はゴールドコーストと呼ばれておりました。ガーナはとにかく昔は「金」の宝庫だったのでそう呼ばれていたのでしょう。

私的なコメント

現在も「金」はあるのかな???もうほとんどほとんど掘りつくしてすでに無い。と隊員の中では言われております。(今は木材が輸出の大きな品です)
さて歴史の話でしたね、ヨーロッパが出てきたあたりの話から始めたいと思います。

〇1471年 ポルトガル人ガーナ沿岸到着。
ここで「サン・ジョルジ・ダ・ミナ」という砦を作ったそうでそれが現在のガーナで有名なエルミナであります。ここでのポルトガル人の目的は「金」を買い取ることです。それに対してガーナ側は何を買ったかといいますと、布、金属商品、ビーズ、そして多数の奴隷(ベナンやコンゴあたりからつれてこられた)だそうです。同じ黒人同士なのに奴隷として買っていたのです。驚きですなー。

私的なコメント

こういうところからもわかるんですがガーナはアフリカではすごかったみたいです。それが今でもプライドの高さに出ているんですねー。勉強ができないのに非常に難しいシラバス(学習内容)を持っています。それで発展すりゃーいいけどプライドで勉強ができるようになれば苦労しないやな。

〇16世紀になるとヨーロッパ各国登場(オランダ、イギリス、スウェーデン、デンマーク)
1637年 オランダがエルミナ奪取。 だいたいイギリスとオランダに絞られる。
もちろん、ヨーロッパ各国の目的は「金」です。しかし誤解なさらないように。「金」の場所はガーナ人しか知らなかったそうです。決してヨーロッパ人が奴隷を連れてって掘らしていたわけではありません。ヨーロッパ人は「金」の採掘場所には近づけなかったそうです。

私的なコメント

意外なことですがガーナ人はヨーロッパ人と対等かそれ以上であったわけです。しかし同じ黒人同士であるのにガーナ人はほかのアフリカ人の奴隷を買って「金」を掘らす。なんか不思議です。ヨーロッパ人はどうやって区別したんでしょうね。見た目変わらないんじゃないかな???

〇17 から18世紀 奴隷の輸出活性化(18世紀の100年間に68万人)。このころはすでにガーナ人は奴隷の輸入ではなく、奴隷を輸出する側に回っていたようです。この輸出する奴隷の調達もガーナ人によって行われたようです。このころ、いろいろあった王国が戦争をし、勝った国が負けた国の人間を奴隷として輸出したものと思われます。
ガーナで有名なケープコーストは1650年代にスウェーデンによって作られ、デンマーク、オランダ、イギリスと持ち主が変わっていったようです。

私的なコメント

奴隷を輸入していたのにも驚きですが、輸出もしちゃいました、ガーナ人。しかしよく考えてみると戦勝国が負けた国に対してめちゃくちゃするのは当然っちゃあ、当然か?日本では責任者は殺してあとは登用する。ってとこでしょうか?でも女は取っちゃったりしたでしょうからひとえにひどいでは済ましてはいけないですね。これも文化の違いで理解をしなくてはいけません。


今回はヨーロッパとの関係をメインに15世紀から18世紀ごろまでのことを書いてみました。

「ガーナの歴史を知ろう その2 アサンティ王国」

ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。というわけで今回はガーナの歴史2、アサンティ王国。

ガーナには数多くの王国があったようです。アサンティ王国、デンチラ王国、アダンシ王国などからは「金」が取れたらしいです。17世紀にデンチラ王国はアサンティ王国に攻められて18世紀には弱体化したみたいですが・・・
ほかにも東南部にはアクワム国、アチム国、北部にはマンプルシ人、ダゴンバ人、ナヌンバ人、ゴンジャ人などが住んでいたようです。ちなみにダゴンバ人、ゴンジャ人に攻められてイエンディと呼ばれるガーナ北東部に追いやられたそうです。

私的なコメント

上記のカタカナ部分は今でもガーナの言葉に残っていると思います。現地語にゴンジャ語とかありますし。 このとき勝ったゴンジャ人はガーナで有名な観光地モレを現在押さえています。負けてしまったダゴンバ族、現在もイエンディにいます。ただし今、伝統的首長の地位を争って揉め事を起こし、日本人はそこに行っては行けないことになっています。安全なガーナで一番危険なところは今、そのイエンディです。

〇18世紀にはアサンティ王国が現在のガーナのアッパーイースト、アッパーウエスト以外の部分を勢力圏に納めたようです。その基礎を作ったのが17世末のアサンティ王オセイ=トゥトゥ。ガーナで有名な「黄金の椅子」の人です。
最初、南の沿岸を押さえていたのはファンティ王国。ということは貿易のメインはこの国であったわけです。アサンティ国を恐ろしく思い、ヨーロッパから得た武器を渡さないなどしていたようですが1806年に侵攻されました。旗色が悪くなるとイギリスに裏切られアサンティ王国の属国となります。このときアサンティ王とイギリスの総督が奴隷2000人を山分けしたそうです。

私的なコメント

イギリスは交易さえできれば、どうでも良かったみたいですね。これが聞いたことがあるずるい商人ですね。
今でもアサンティ国はあるみたいで国王もいます。ヨーロッパに留学したりしているいわゆる「インテリ」ですが。ファンティって言葉は今でも「ファンティケンケ」というガーナの代表的食べ物でも残っています。

〇1808年 奴隷貿易廃止(ヨーロッパの方針)
1817年 アサンティ王国とイギリスが平和協定を締結
このときアサンテ王国に招待されたイギリス人は
「・・・われわれは原住民の王のいかめしさを野蛮と表現しがちだが、それはばかげた偏見である。アサンティ王の立ち振る舞いは威厳に満ちており、かつ優雅であった・・・」と記録したらしい。

私的なコメント

奴隷貿易を突然やめられてガーナ人もびっくりしたでしょうね。どうやってイギリス人は説得したんでしょう?
原住民の王で威厳に満ちていた。いまいち想像できませんね。しかし見た目ではなく立ち振る舞いですからね。相当すごかったんでしょうね。今のガーナ人からは想像できないなー。そんな人みたことないですね。


「ガーナの歴史を知ろう その3 イギリスとの戦い」

ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。 前回はイギリスとアサンティ王国(ガーナ)の蜜月時代の話をしました。今回はガーナの歴史3、イギリスとの戦い。

〇1820年ごろまで関係良好だったイギリス、アサンティ王国ですが関係は次第に悪化していきます。原因はアサンティ国に攻められ、その属国になっていたファンティ人やイギリス人同士の不仲だったようです。
1821年 戦争開始。原因はイギリス人に仕えていたファンティ人がアサンティ商人との口論でアサンティ王を侮辱したことだそうです。イギリス人はこのときファンティ人の肩を持ったため戦争に突入。
1824年 イギリス総督マッカーシー戦死

私的なコメント

国同士にはたいして問題は無かったみたいですが間に入っていた人間が揉め事を起こしてしまったみたいですね。戦争の原因も戦争までせんでも・・・と思う些細なことです。戦争が起こるときというのはこんなものなのですかね?しかしアサンティも強いですね。敵の総督戦死ですからね。

〇1826年 ドドワの戦い。この戦いで初めてアサンティ王国が敗北します。アサンティ国が始めて揺らいだ。イギリスが軍事介入した。という2点が非常に重要なところです。
1831年 平和条約締結。アサンティ王国、金(きん)による戦争賠償と息子を人質にそして支配していた地域の開放を条件に締結。

私的なコメント

金を払い、人を質とられ、領土も削られる。実質的にアサンティ王国の完全敗北ですね。
間5年ありますがこっぴどくやられたみたいですね。

〇1844年 諸王国、裁判に際してイギリスの介入を認める。(イギリスの司法原理を取り入れる)
1850年 各地の砦をイギリス入手
1863 年 再びアサンティ王国とイギリスが戦争。原因はケープコースト城に逃げた逃亡者の引渡しをイギリス総督が拒否したことによる。アサンティ王国勝利。マラリア、赤痢、黄熱病などの病気によってイギリス軍が痛手を負ったため。アサンティ王は「森は大砲よりも強い」と語ったという。
1872年 アサンティ王国南部(イギリス領土)へ侵攻。雨季に入り撤退。
1874年1月 逆にイギリスが北部へ侵攻。「サグレンティの戦い」アサンティ王は和平を望む。
同2月 イギリス軍首都クマシに入城。王に会えず火を放って撤退。撤収途中に和平協定にアサンティ王合意。内容は金による賠償、沿岸諸国の独立を認める。の2点。
その後イギリスはアサンティ王国を除く南部沿岸を植民地に。

私的なコメント

どうやらオランダ撤退してアサンティ王国は近代武器が手に入らなくなると危機感を感じての戦争だった感じがしますね。しかしアサンティ王は1872年の段階でも反対していたみたいです。逆にイギリスはオランダいなくなってやりたい放題できるといったところでしょうか。戦争もやっぱり長引くとヨーロッパ勢が最終的に勝ちますね。武器とかが違うから当たり前ですけど。アサンティ王はそれがわかっていたのでしょう。

〇19世紀末 イギリス、フランスとの領土拡大競争激化
1896年 クマシ侵攻。アサンティ王抵抗せず降伏。アサンティ王プレンペー1世シオラレオネへ。(後にセイシェル島へ)
1900年 ヤー・アサントワ戦争。原因はイギリスの「永遠にイギリスの支配下」宣言と王国の象徴「黄金の椅子」の提出を求められたことによる。犠牲者イギリス272人。アサンティ王国数千人。
1902年 アサンティ王国植民地化
1924年 プレンペー1世1市民として帰国。

私的なコメント

アサンティ王は賢かったですね。負けるとわかっていたために余計な犠牲者は出さなかった。ただ平和主義者という面もあったかも。これからの歴史を見ていくとわかりますが歴史的に血が流れるのが普通。というところでもガーナ人は無血ですんでいることがあります。それが現在でもガーナが平和である。ということにつながっているのでは。と思います。


「ガーナの歴史を知ろう その4 植民地下のガーナ」

ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。
前回はイギリスがついにとアサンティ王国(ガーナ)を植民地化しました。
今回はガーナの歴史4、植民地下のガーナです。

〇1879年 諸説あるがテテ・クワシがカカオの生産を始めたとされる。
1902年 イギリス、アサンティ王国を植民地化。(植民地支配とは言ってもチーフ(首長)には一定の権限が認められていた)それによって金の採掘活性化。マンガン、ダイヤモンド、ボーキサイトなども発見される。
1905年 セコンディ-クマシ間の鉄道開通。
1914年 道路1部開通
1923年 アクラ-クマシ鉄道開通
1924年 道路全土に拡大
1930年代 カカオ不売運動

このころイギリスで教育を受ける新興エリートがでてくる。 またカカオ生産でぼろもうけをしていたのもこの時代。とにかくカカオを育てれば何でもできる。見たいな雰囲気があった様子。しかしそれも1930年ごろになるとヨーロッパに安く買い叩かれるようになり、カカオ不売運動をしたようである。

カカオについて少し補則を。カカオは1度育てると30年は実がなり続けるために非常に安定して収入が得られる。しかしながらガーナは母系家族なので突如、お父さんが死ぬとそのカカオは奥さん、息子には行かずその父の母方にまわってしまう(要するに父さんの兄弟に)。そのころカカオを育てている家族はそれのみ育てていることがほとんどだったので、それによって奥さん、息子は路頭に迷うという社会現象も起こったといわれている。

私的なコメント

ここでのコメントはとにかく鉄道、道路に尽きる。2005年現在、鉄道はアクラからクマシの途中4分の1くらいまでしか走っていない。セコンディクマシ間などまったく走っていない。道路もODAが入って一生懸命作っている。100年前にできたり、開通したりしたはずなのにどういうこっちゃい!!!と突っ込みを入れたくなりますね。ここからわかると思いますが、現在でもそうなのですがガーナ人は維持できないのですよ。どんなものでも消費していけば老朽化して使えなくなります。ガーナでは新しいものができていかないから、もらってそれが尽きたら終わりってのが流れなのです。だからODAで作った道路もガーナが進歩しなければ老朽化したら直せませんよ、多分。


「ガーナの歴史を知ろう その5 ガーナ独立からその後・前半」

ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。 前回は植民地下のガーナの話をしました。今回はガーナの歴史5、ガーナ独立からその後です。1つ注を。ンクルマはガーナの独立の父と呼ばれている人です。

〇1940年代後半 物価の上昇、失業者の増大から独立運動が高まる。
1947年 「統一ゴールドコースト会議党」設立。ンクルマ事務局長就任。
1949年 ンクルマ上記を離脱。「会議人民党」結成。
1951年 立法議会選挙実施、ンクルマ首相就任。
1954年 選挙において会議人民党勝利
1956年 選挙において会議人民党再び勝利
1957年 ガーナ独立。サハラ以南アフリカの植民地で最初の独立。

私的なコメント

ここまでは順調ですね。いやね、ガーナがアフリカで最初に独立したというのはガーナに来る前でも勉強したわけですよ。しかしみんなガーナに来てみてびっくりするわけですよ。独立した後いったい何をやっていたのだ???と。
もしそのまま順調に発展していたらガーナはアフリカでナンバー1になっていたでしょうね。

〇1957年 ガーナ独立
1958年 裁判なしで投獄できる予防拘束法制定。それによって第一野党、統一党のブシアは弾圧を恐れイギリスに亡命。
1959年 アシャンティ州からブロング・アファフォ州分離(統一党の勢力圏を分離するため)。
1960年 共和制になる。ンクルマが初代大統領就任。
1964年 1960年の選挙の大統領対立候補ダンカ獄死。カカオ輸出に政府介入。それにより政府は歳入確保、農民は飢えた。
好調なカカオの輸出、豊富な地下資源、比較的高い教育水準があり、発展に向けていい条件がそろっていた。しかし国際収支はカカオ頼み、農業も工業も政府系企業頼みであった。それによって競争力が欠如しガーナの発展は失敗した。

私的なコメント

ガーナ発展の失敗の理由は1つ。
「物にだけ視点がいってしまい、人間がおろそかになってしまった。」
ことだと思われます。とにかく政府はいろいろやってみるものの、国が発展するためには物ではなく人間が発展しないとだめです。そこに目がいかなかったのが失敗の原因でしょう。
この失敗を国際協力において先進国が1980年台、90年台と繰り返すのは歴史的に面白いですね。そしてこのことは現在のガーナでも同じことです。この国の人間はいまだに物があれば自分たちは発展できると思っています。人間を育てるという意識がない。40年たってもいまだに彼らは間違いの根本がわかってないと自分は思います。

〇1966年 無血クーデター。アンカラが国家元首に(国家開放評議会NLC)。国の隅々まで浸透していた会議人民党の影響力を一掃。(政党解体、政治犯の釈放、首長を解任。)
統一党ブシア帰国。
1969年 アフィリファが国家元首に(アンカラは汚職で辞任)。新憲法採択。
同年8月 総選挙。ブシアが新大統領に。政策として外国人による経済支配を取り除くため外国人を多く追放した。しかし労働力不足が深刻化した。
1970年 貿易ビジネスを行う外国人の活動制限。商業活動のガーナ人化を目指す。民間企業の活力重視をうたっていたが、しかし工業化は政府系企業に依存していた。
1971年 カカオの国際価格下落。物価が高騰し、賃金凍結、無償医療の廃止、増税などが行われる。

私的なコメント

注目は無血クーデターです。ンクルマが外遊中に起こったみたいです。このときンクルマはギニアだろう。と言って信じなかったそうです。そのギニアに結局亡命することになるわけですから、ンクルマさんも大変でした。しかしクーデターしたものの目先の「だめだ、だめだ」に気をとられ、深く考えていなかったみたいですね。もう最後の方はやっていることはめちゃくちゃで、また起こります。

〇1972年 無血クーデター。国家救済評議会NRCを組織したアチャンポンが国家元首に。軍人政府を作る。
1975 年 7人の軍人からなる最高軍事評議会SMC設置。権力の集中をはかる。政策は、食糧自給キャンペーン、企業活動の政府介入強化、為替レート引き上げ。これによって闇レートと公定レートの差が開き、ブラックマーケット蔓延。カカオ輸出衰退。汚職、腐敗蔓延。多くのガーナ人が出国し頭脳流失が起こる。
1977年 軍と警察と市民で政府を樹立すると言う「連合政府案」提案。(軍の政府正当化のため)
1978年 国民投票で同案が承認されたと政府が発表。反対勢力が多く逮捕されるがそれでもストライキなど頻発。
それによる責任追及でアチャンポン辞任。アクフォが国家元首に。平価切下げ、緊縮財政を行うがストライキ収まらず。戒厳令が出される。
1979年 政党結成自由化。政府「連合政府案」下げる。

私的なコメント

はい、またやりました、クーデター。これは日本でもありました軍によるクーデターです。日本と違うところは無血であるところです。やっぱりガーナ人は平和主義者というか、下手な争いは好まないってことがわかると思います。まあ、そろそろ軍が出てくるかという頃に出てきてます。どこも世界的に同じですね。そして軍による政府がうまくいかないのはどこでも一緒です。軍人の1番の欠点は政治家ではないことです。経済とかそういうことがわかっていない。と言うわけでまた起こります。

さて年代をよく見てみると1979年。自分はそろそろ母の腹の中にいる頃です。そんな頃でもまだこんなことをしています、ガーナ。まあ、ほかの国では2005年現在でもやってますから遅いとは言えないですけど。
そうそうガーナの国際協力1977年から始まっていますからこの頃です。よくこんな不安定なところに援助しようと思ったなあ。と思いますね。今のアフガンに送るような感じがしますが、どうなのでしょう???


「ガーナの歴史を知ろう その6 ガーナ独立からその後・後半」

ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。
前回はガーナ独立から国内の混乱をお伝えしました。今回はガーナの歴史最終回。その続き、やっと国内は安定してきます。

〇1979年5月 ローリングス、クーデター失敗、軍事裁判へ。しかし世間は同情的に見る。
同年6月 軍将校クーデター。ローリングス解放、軍部革命評議会AFRCの議長に就任。
アチャンポン、アクフォ、コフィリファらを銃殺刑に。
1979年 総選挙。人民国家党PNPのリマンが大統領に(ローリングスは国家元首にならず)。
同年9月 AFRCから政権移譲。政府は軍人解任をする。
1981年 カカオ生産者価格3倍に。しかし国際価格は変わらないため国が赤字に。インフレ率100%。闇レートと公定レート10倍の差に。

私的なコメント

さてまたクーデターです。しかし前とは違います。まず失敗しちゃった。普通はこれですぐ銃殺刑なんですが平和なガーナ処分出す前にほかのところからクーデター。それによってローリングスは開放されます。そこでまたいつもとは違います。無血ではありません。過去の失敗した人を銃殺刑に。またまた違うところは自ら政権にとどまらず選挙によって政権移譲。ローリングスはいつものガーナ人ではなかったですね。
しかし新しい大統領も良い政策がとれません。ガーナは良い大統領が出てこないですね。1957年独立してからここまで30年弱。ガーナは人材が昔から現在までずっと問題ですね。たぶん海外に人材流失しているのだと思います。・・・というわけでまた起こります。

〇1981年12月31日 ローリングス2回目クーデター。ローリングスが今度は国家元首に。リマン文民政権終了。ただ処刑は行われず。水面下では多くの人が殺害されたと言われている。政策は、汚職、不正の一掃の名の下に軍人、公務員、民間人の蓄財に対して処罰。
社会主義政権に援助を求めるが、それがもらえないと知ると西側諸国に接近。
1983年 国際通貨基金IMF、世界銀行の勧告を受け入れ、自由主義的な経済政策である構造調整政策開始(経済に対する各種規制廃止、政府系企業縮小)それによってカカオの価格が安定。経済成長率も安定的にプラスになる。
1992年 西側の圧力や、選挙でローリングス有利と思われる状況であったため民主化へ。新憲法が国民投票で承認、10年半ぶりに政党活動解禁。ンクルマ系4政党、旧統一系(ダンカ・ブシア系)の親愛国党NPP、そしてローリングス率いる国民民主会議NDCが争うことに。
同年末 58%の指示を得てローリングス勝利。NPPが選挙に不正があったとして議員選挙を辞退。それによってNDCは大量議席獲得。
1996年 選挙でローリングス再び勝利。議員選挙もNDCが与党を維持。
1998年3月 ローリングス2000年末引退表明(大統領は憲法で2期8年までと決まっていたため、それに対して続ける意思がないこと、憲法を変えないことを表明) 。
同年6月 ローリングス、副大統領のミルズ応援を宣言。
2000年 大統領選挙で親愛国党NPPのクフォーが当選。議席も与野党逆転。これはガーナで初めて選挙による政権交代が行われたということ。長期政権の交代が平和裏に行われたということで画期的なことであった。
2004年 平和裏にクフォーが再び勝利。2期目に突入。
現在に至る。

私的なコメント

たぶんローリングスは1度クーデターを起こしたあと、政治の勉強をしたんでしょうね。彼の政策はガーナを安定に導きました。ローリングスという人、ただ銃殺刑をした人というイメージしかなかったので調べてみて自分としては驚きです。彼の東がだめなら西に。という実を取った政策はすごいことだと思います。ガーナという国は社会主義国なのになんとなく資本主義国家っぽいと思ったらこんな歴史だったのですね。

上記しましたがそもそも予定通りに公平にしかも平和裏に選挙が行われるということは実はアフリカ各国の中では非常にすごいことなのです。自分が協力隊員をしているときに選挙が行われました。とても平和でした。少し北部で揉め事がありましたがあの程度ならたいしたものです。近隣のトーゴは最近、大統領選が死んだあと息子が継ぐ、継がないでもめましたし、ブルキナファソ(コートジボアールだったかもしれない)は選挙がこの10月31日に行われるはずだったのが延期になりました。ガーナが平和と言うのはすごいことですね。

歴史を見て思いましたがまだガーナと言う国が安定して20年くらいなんですね。たったちょっとしか知らない自分が「ガーナはだめだ。」なんていうのは間違っていたような気がします。だって20歳だった人は今40歳。ガーナは良くなったなー。って思っているに決まっているもん。そんな自分たち日本人が思うような急激な発展は、この安定が当たり前という世代がガーナを支えるようになってからだと思います。

歴史を見てわかったと思います。アシャンティ王国の無戦降伏。無血クーデター、選挙結果の受け入れなどガーナはくだらないというか、無駄というか、そういう揉め事は一切行っておりません。ガーナ人がいかに平和主義者と言うことがわかってもらえたのではないかと思います。ただ人間が育っていかない。育っても流失してしまう。というところが大きな問題ではないかと思います。

ただ1つ疑問が「なぜNDCはNPPに負けたのか?」経済を安定に導いたNDC、何か問題を起こしたのでしょうか?調べられたら調べます。

以上ガーナの歴史でした。

参考文献「ガーナ混乱と希望の国」高根務著 アジア経済研究所